2009年02月18日

フィギュアスケーターへの敬意

最近、TV の視聴率が伸び悩んでいるらしい。
私自身はそれほど TV が好きなほうではないのだが、それでも以前と比べると、
見たいと思う TV 番組が減ってきているのは確かである。
なにも懐古趣味というのではないが、昔のほうが良い番組を作りたいという、
作る側の気概や想いのようなものが感じられたからに他ならない。

ある程度企画も出尽くして、なかなか新しいアイデアも出にくいのかもしれないが、
どのチャンネルを見ても似たような番組か、
今までにはなかったけれども、ただそれだけ、というような番組ばかりで面白くない。
ドラマひとつとっても、漫画が原作という作品がやたらと目につく。
もちろん漫画にも優れた作品はいくらでもあるだろうから
全面的に否定しているのではなく、TV 化に際しての作り方が安易というか、
こうも溢れかえってくると短絡的に企画しているように感じるのだ。

過去に高視聴率を取った番組をパターン化し、
それがなぞらえているばかりでは見るほうも飽きてきて当然である。
TV が娯楽の主流だった時代なら、それでも視聴率は取れたかもしれないが、
いまや CS やケーブル TV は多チャンネル化し、インターネットでも
動画や番組は配信されている。視聴者の選択肢は格段に増えているのだ。
ところが、地上波民放各局は広告収入の激減から、経費削減だの、
大物タレントのリストラだのと制作費を削ることばかりに躍起になっている。
それでは質の良い番組などできるはずもない。

そもそも、それ以前にもっと早く気づくべきことがあるのではないか。
過剰な、それも不必要な演出にウンザリしている視聴者が増えていることに。

フィギュアスケートの試合の中継に出てくるタレントに、
スケートに対する見識や愛情はあるのだろうか。
大相撲の番組にデーモン小暮氏が出演するのは納得がいく。
デーモン氏は長年にわたって相撲への深い愛情をもち、
尚且つ豊富な見識を持っているからだ。
だがゲストと称して番組の宣伝のためにタレントが出演したりするのはいただけない。
彼や彼女へのインタビューが選手に対してのそれをカットしてオンエアされては
納得のしようもない。

また、野球やラグビー、格闘技などは正に対決し勝敗を決めるスポーツだ。
だがフィギュアスケートは、結果的に順位がついてしまうとはいえ
優勝者以外の選手が敗者というわけではない。
それなのに勝敗のみをクローズアップし、対決ムードを煽る。
優勝争いに絡んでいない選手はまるで無視するかのようだ。
選手に対しての敬意がまるで感じられない。


と、制作者側への不満を述べたが、
本当のところ、視聴者側にも問題があると感じてしまうのは私だけではないだろう。

フィギュアスケートは「勝敗だけがすべて」ではない。
選手それぞれの技量はもちろん、
衣装や音楽、それらを総合した芸術としての楽しみ方がある。
もっと云えば選手の個性やそれまでのドラマ等も合わせて見処はたくさんあるはずだ。
にも拘わらず、誰が優勝するのかと、そのことばかりに関心が傾く視聴者が
増加しているのだとすれば、こちらも短絡的と云わざるを得ないだろう。

「勝つ」ことにしか興味をもてなくなってしまった視聴者にこそ、
本来のフィギュアスケートの楽しみ方を思い出して欲しい。

選手一人ひとりのドラマに愛情をもち見守るように観戦、鑑賞していきたいものである。


来月、世界選手権が開催される。
安藤選手はもちろん、出場するすべての選手がどんな想いでその日を迎えたのか、
勝敗だけではなく、そのことも念頭においたうえで番組作りをして欲しいと思う。



posted by マキティ at 00:02| Comment(8) | TrackBack(0) | 安藤美姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月05日

人間・安藤美姫

今日の生活において、CG による映像を目にしない日はない。
その分野の知識は欠片もないが、そもそも CG(コンピューターグラフィックス)とは、
コンピューターを用いて描いた画像や動画のことだというのは、誰でも知っている。

20 年ほど前になるが、グラフィックデザインをしている人間に
「コンピューター処理された画は好きではない」と話したら、
「高い技術での画像を見たことがないからだ」と一蹴されたことがあった。
それからというもの、自分の固定観念を取り払うべく、
CG による優れた作品に親しむよう心がけた。

確かに CG によって描かれた画像は色彩も鮮やかで非常に綺麗である。
映画などでは、滑らかな動きを施したリアルな映像に驚愕する。
実際の撮影セットに頼ることなく非現実的な世界をも楽しむことができる。
さらに今となっては当たり前のように、
実写による映像にもコンピューターによって処理、調整がされていて、
日常的に CG による作品を目にするようになっている。

高い技術による、より綺麗なもの、よりリアルなもの。
まさにそれは驚異の世界であるといえる。

だがそこに、
血の通った生命の鼓動や暖かなぬくもりを感じることはない。

子供の頃、授業中に描いた画が子供二科展で入賞して
新聞の片隅に載ったことがあって、母親に連れられて美術館に何度か足を運んだ。
大人になってからも、数回だが美術館で絵画を鑑賞する機会に恵まれた。
そこで目にしたものが私に語りかけた、いや、なにかを訴えてきたような
不思議な感覚が、遠い記憶の中で忘れられずにいる。

作者が描きたかった想い。
想いという言葉だけでは語り尽くすこともできない「情熱」がほとばしっていたのか。
触れば伝わりそうなぬくもり、息づかい、誘うがままの甘美な香りさえも感じ、
息苦しいほどの「生命の鼓動」に、身体全体が包まれたような感動を覚えたのだった。

作者は、それぞれの作品を生み出すにあたって、
どれほど心血を注いで、数知れぬ苦労の末に完成させたのであろうか。

カンバスに向かってただひたすらに、生命を吹き込んだのだ。
情熱を絵筆に託して。


話は変わるが、音楽好きの私にも、どうしても受け入れられない「音」がある。
それは、リズムマシン、あるいはコンピューターでプログラミングされたビートや
シンセサイザーの音である。
今はサンプリングという技術によって、生の音をコンピューターに取り込み、
それを自由自在に操ることができる。
犬や猫の声でメロディラインを奏でている曲を CM で耳にされたことはないだろうか。
あれがサンプリングである。
本物の犬や猫を歌えるように訓練したわけではない。

また、ドラムの音をサンプリングして鳴らすと、ちょっと聴いただけでは
人間が叩いているのかと思ってしまうほどである。
だが、すぐに違和感を覚える。あまりにも正確すぎるのだ。
人間は全く同じ強さで叩いているつもりでも、厳密にいえば毎回、微妙に違う。
完璧に同じ音というのは2度と出せないと云っていいだろう。
サンプリングは1つの同じ音(音源)を繰り返すので、
正確さは人間とは比べ物にならない。
ドラマーは、正確なビートを刻めるように日々練習を重ねるのだから、
それで良さそうなものだが、やはり人間とコンピューターとでは何かが違う。
ドラムといえど、曲に合わせて緩急や強弱をつけ、他のメロディを奏でる楽器や
ヴォーカルの感情表現を助けている。
曲のリズムのジャストのタイミングよりもほんの僅か、早いか遅いかで、
ドライブ感を出したり、重い感じにしたりすることができる。
それは、乱暴に云ってしまえば音の「バラツキ」なのだが、
この「バラツキ」こそ、その人独特の持ち味となり、感情も表現し得るのだろう。

いずれそういうこともプログラミングできるようになるかもしれないが、
コンピューターに個々がもつ感情表現まではできるとは思えない。
ないものは表現のしようがないからだ。


高い技術を駆使して創り上げた綺麗なもの、正確なものよりも、
その時々で変わる個のもつ感情表現の面白さ、
あるいは血の通った生命の鼓動や暖かなぬくもりに、どうしようもなく惹かれる。
そこに数え切れない苦労の跡や、日々の生々しいまでの痛みさえも感じるからだ。

フィギュアスケートにも同じことが云える。
優れた身体能力をさらに練習で磨き上げて難度の高い技を織り込んだ演技には、
驚嘆することはあっても、それだけでは感動を覚えることはない。

身体能力の高さを存分に活かした演技なら、
確かに見事ではあるし、ずいぶん綺麗なものを観せてもらった気分になるだろう。
また、いつ観ても同じ、計ったように確実な演技だったとしたら、
安心して観ていることもできるだろう。

けれど、もしもそれだけならば、私がフィギュアスケートに観たいのは、
綺麗なだけの人形や高性能な精密機器、コンピューターではないと云いたい。

安藤選手に心が惹かれるのは、
その演技のなかに高い技術をもってして創り上げたものだけではない、
人間らしさに溢れたものを感じるからだ。「人間」そのものと云っていい。
だからそこに「芸術」の息吹きを感じるのかもしれない。

安藤選手を襲った悲しみ、痛みは、胸の奥深くに隠され、
それが憂いとなって銀盤を削る氷の煌めきさえ、彼女の涙のようにみえる。
悲しみを内に秘めた翳りのある表情は、この世のものとは思えないほど美しい。
また、挑発的で、射るような眼差しには燃えるような情熱を感じる。
熱い血潮から湧きあがるように昂ぶる想いが、観る者の心を惹き込む。

人形やコンピューターにはとうてい表現できない人間味溢れる演技、
まざまざと生命の鼓動を観せてくれるのが、安藤選手なのだ。

だがここに1つ、ある疑問を感じずにはいられない。

数知れぬ悲しみと痛みを胸の内に秘めた安藤選手の演技に、
人間らしい感情や生命の鼓動を感じ、魂が揺さぶられるような感動を覚えている私は、
安藤選手にエールを送り、また何より彼女の幸せを願っているはずではなかったか。
安藤選手の演技に感動するのは、彼女のなかに悲しみや痛みがあるからなのか。

その答えは安藤選手の未来におのずと出されるだろう。
未来を信じているから、
彼女のいくつもの涙を分かち合うように観ているのだ。


〜悲しみと痛みを知っている者にこそ、最高の喜びが待っている〜




posted by マキティ at 00:00| Comment(6) | TrackBack(0) | 安藤美姫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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